東京新聞社の岳人誌が800号記念となり、
特別鼎談としまして、
塩沼亮潤大阿闍梨、
山野井泰史さん、
竹内洋岳さん、
という現代の日本の山の歴史を語る上で欠かせない方々にお集まり頂き、
800号を記念する鼎談が執り行われました。
山野井さん、竹内さんは登山するものにとってはスーパースターですので、
いまさら語るもがな、ですが、
大阿闍梨様に関して、ご存知ない方は、
是非、著作を手に取ってみてください。
奈良金峯山寺の大峯千日回峰行は1,300年という長い歴史のなかで、いまだ2人の満行者しか出ていない荒行ですが、その荒行を一日16時間、年間4か月、9年がかりで史上二人目に成し遂げられた方です。
http://www.amazon.co.jp/人生の歩き方-塩沼-亮潤/dp/4884748573
お三方は、山へのアプローチが異なりますが、いずれも人生そのものをかけて、どっぷりとこの世界で生きてこられた方々であることは、皆さんのご承知のとおり。
そしまして、勝手ながら、このお三方と山との関わり方、またその方法論が、
日本人と山との関わりを、非常に象徴的に、表しているように思えてなりません。
日本人と山との関わりは、世界に比類のないほど深く、そして長い歴史を有しています。
ですが、考えてみると2000年以上の長きに渡って、それは信仰(宗教)にもとづいたものでした。
宗教というと、新手の宗教の悪いイメージを連想される方がいるかもしれませんが、
2000年間の関わりはそう簡単に消えるものではないと思っています。
僕達の遺伝子の中にも、その歴史が刻まれているはずです。
そして、近代に入って、登山の価値観は、
下記の3つに分類されているのではないかと思っています。
・芸術からのアプローチ
・科学(スポーツ)からののアプローチ、
・信仰からのアプローチ
この三者のアプローチと格闘の結果が現代までに至るダイナミックでユニークな日本の登山の歴史を、形作っており、今後も、山に向かう方々は、多かれ少なかれ、この3つのアプローチのうち何れかをとっていくものではないかと思います。
また同時に、現代の登山界が抱える多くの問題も、
「山に向かうものには、自分以外の、二つの道から頂きを目指すものがいる。」
という認識さえ持てれば、時にはその者達に道を譲り、
多くの場合、問題は解決に至るのではないかと、
自分は性善説にたち、思えるのです。
山は自分達だけのものではない、という当たり前の考え方です。
科学は、科学だけでは万能ではなく、
芸術は、芸術だけでは、独りよがりであり、
宗教は、それを活かすには、現実社会が必要。
という相互がそれを活かすためには、相互を必要としているという考え方です。
そして、鼎談を幸運にも身近で聞ける有り難みを味わった身としては、
やはりトップ・ランナーは、出自は違っていても、
これらの3つフィールドを自由自在に行き来されているということでした。
読者の皆さんには、どなたの言葉が一番響かれるか、
想像するだけで、楽しいものです。
響くものがない場合は、本当に申し訳ないのですが、
それは、僕自身の筆の至らなさであり、
誠に申し訳なく思います。
何しろ鼎談の最中は、こんな説法を生で聞けるなんて、
自分は日本一の幸せものだ・・。と思っていたのですから。
YH
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